竹寺
安達 - 2013-04-09 16:34

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拝復、竹寺は登山者と修行者の訪れる山です、車で行こうとおもってはいけない。
明治維新の折、政府の神仏分離令によって神道は国教化されたのですが、山奥の誰もしらないようなこの寺は廃仏毀釈も免れ、東日本で唯一の神仏習合の遺構になっている。子ノ権現から険しい径を行脚して到るのが正統だが、飯能から赴く方が幾分楽です。途中の峠道には神も仏もありはしない。

 
竹に囲まれた最初の鳥居をくぐると、瑠璃殿のしだれ桜に出会い、わびしい気持ちも晴れるかもしれません。ことばにするとこの拙文ではなにも伝わらない、いや饒舌であるほど晦渋なのです。寺社仏閣を詣でようとする貴方の信心は立派かも知れないが、しばしば神と仏は留守にする。徒労をいとわない決心があればよいのですが、盲信はうえへうえへと伸長する。
手入れの行き届いた参道に、人の気配はまるでなく、鬱蒼の隙間からホトトギスの鳴き交わす声だけが響きます。

 


瑠璃殿には薬師如来が祀られる。鬼瓦に梵字が見えます。

 


不発弾で作られた平和の鐘です。静寂を壊したくないので、私は鳴らさない。静寂と平和はしばしば相対するものです。鳴らすべきか、鳴らさざるべきか、鐘の前で座禅を組むこともできます。

 


竹眼鏡で下界をみおろしても、みえるのは濃い霧だけです。

 


瑠璃殿の傍には牛頭天王の銅像があります。中国から贈られたものですが、素晴らしい作りです。三峰の日本武尊に見習って欲しいですが、みたことがありますか、あれはあれで味わい深い。
天王様はインドの祇園精舎の守護神で、スサノオをして「クソみたいな土地」と言わしめた半島の牛頭王とは縁もゆかりもなく、起源説を唱える民族に出会ったら日本書紀のコピーを口にねじ込んで追い返してください。また何かを盗みにくるかもしれませんからね。

 


瑠璃殿の向かいには観音様。狛犬が食玩のようです。

 


石灯籠と竹。
四方八方が美しく計算された剪定に、まだ青い大気のふかいところからおりてくる冷たく重い風を感じます。フォルマリズムの空虚さを説く前に、形状は精神の顕れであることに目を向けるべきで、そこから出発しなければ我々の脳髄は煩悩に勝てない、いや勝つ必要もないのですが。

 


『奥武蔵俳句寺』と呼ばれるほどですから、あちこちに歌碑があります。浦安鼠園に隠されたネズミ印を見つけるよりコンプリートは難しいかもしれません。

 


本殿へ向かう階段の鳥居。茅の輪を潜って心身の清浄を願うのですが、清浄の基準がどこに設けられているのかすら定かでない心身に浄化の機会はないかもしれない。
あるいは浄化とは清貧でしょうか。

 


本殿も霧に包まれて、境内を眺望することはできない。

 


本殿の狛犬です。

 


竹のお手水。

 

 
牛頭天皇が彫り込まれたトーテムポール。
よくみると焼け焦げています。どうやら本殿は一度焼失したらしく、そのときの跡です。木造の建物はだいたい焼失する運命にある。外国の建築は設計者の名と共に名声を得るが、日本は火山と地震の国である以上、震度三、四で瓦礫に帰すような大聖堂など建てるわけにはいかないのです。

 


吹いてる笛にもおみくじが巻かれています。これでは笛が吹けない。

 


本坊の前の梅。
精進料理を頂くことができますが、予約が必要です。境内には売店もなく、食事をとるような環境でもありませんので、食事は済ませてくるのが良いでしょう。お手洗いはあります。

 


本坊脇の渡り廊下。向こう側は僧坊でしょうか。

 


奥の山道に進むと、竹林に入ります。竹に名前を刻んだ痕がありますが、名前を刻まれた竹はその名前の傷がもとでその名前とともに立ち枯れます。

 


竹林から瑠璃伝を望みます。
高所特有の強い空気が充ち満ちて、屈曲した光が頭上に注ぎ、世俗へ戻る前に悔悛の機会が与えられる。懺悔の径はその先善意が敷き詰められているのですが、決して躓かぬようご注意ください。

 


しんしんとした静寂と大気から溶け出した青い光の瞬きとが、夏の宵の甘い匂いに似た風を連れてきます。峠の風に冷やされた境内の梅もしだれもそろそろ時期が終わり、楓の緑に包まれる季節を迎える頃合い。この寺はその季節と時間ごとに異なる表情をみせてくれます。初夏に松蝉の鳴く折に再び訪れることを、いまから楽しみにしております。

匆々。

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